昭和40年02月20日 夜の御理解
昔はお嫁に参りますと必ず眉を落として歯を染めたもんです。眉が泡落とし皆さん御承知でないかもしれません、私共子供の自分は婆々さんなんかはいましたです。眉をきれいにそるんです。歯をお歯黒に染めるんです。ですから娘と嫁の人妻であると言う事が、はっきりそれだけでもう区別が出来た訳なんです。この頃では娘さんやら嫁さんやらちょっと見分けがつきません。
ように信心もお道の信心をしていない人やら、区別がつかない人が多くなったんですね。もう先生方でも私共も、まだ先生方が外出した時には必ずこういうふうに紋付き袴を着けておいでとこう言うんです。殆どの先生方が。所がこの頃は、皆さん信者も先生も区別がつかん。先生やら信者やら区別がつかなくなった。その点キリスト教の牧師さんなんかは違うですね。
今日もあの黒衣を着てから、どこへ行くでも黒衣を着ておられますから、この人はキリスト教の所謂、牧師さんだなぁと言う事が分かる。私お道の信心を頂くものの中に、形の事ではないのですけれどもです、信心を頂いておる者、いや頂いていない者の区別がはっきりするくらいなおかげを頂かないと同時にです、そこの所のなんとか眉を落として歯を染めてというくらいにはっきりね、頂きたいもんだなと思う。
御理解第20節こうあります。「この方が天地金之神よりおかげを受けておる事を話にして聞かすのぞと、疑うて聞かぬ者は是非に及ばず 可愛いものじゃ。又時を待っておかげを受けるがよし。銘々に子を持って合点せよ。親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ。言う事を聞かぬ子は親も仕方があるまいが」と、御理解20節。「この方が天地の神よりおかげを受けた事を話にして聞かすのぞと、疑うて聞かぬものは是非に及ばん」と。どうでしょうか。
私はこれはあの一般信心の無い人達、信心を進めても、信心になろうとしない人達に下さっておる、御教えの様な感じで頂いておったんですけれども、以前はそうだったかもしれないですね。昔は。所が最近はこりゃお道の信奉者が頂き直さなければならない御教えだと思うんです。この方が天地金之神よりみかげを受けた事を話にして聞かす。話にして聞かせる。その話をお互いが聞いておるだろうかと、これはここでは聞いておると言う事は、信心を身に付けておるだろうかと言う事。
聞いた事を行じておるだろうかと、これが又いわばこの耳をもって聞くだけだったら、そりゃ信奉者の全部の人が朝晩御理解頂いておりますからね。聞いてるんですけど、聞いただけではいかんのです。それを家業の行の上に【 ならはい 】の上に頂き現して行かなければ値打ちはないのです。疑うて聞かぬ者は是非に及ばんと、疑うてはおりませんと、疑うてはおりませんけれども疑うておるのと同じ事じゃないか、聞かないなら疑うておるから信心せん可愛いものじゃ。
又時を待っておかげを受けるがよしと、銘々に子をもって合点せよと、親の言う事を聞かぬ子が一番つまらん。親様だ親神様だというておってもです、言う事を聞かん信者が一番つまらんと言う事。ね、時節を待ってお蔭を受けたがよかろうと、所謂可愛いものじゃと、こう何か言う事を聞かん信者の後から祈っておって下さっておるという感じが致しますね。どうか一つそこの所を分かってくれよと。
昨日ある方が、ある方というても北野の秋山さんが、朝の御祈念に参って来てから、もうここに15年。丸々15年通うて見えられた訳なんです。毎朝参って見えられます。最近ようやく教えを行じさせて頂く楽しみが出来て参りました。教えを例えば朝なら朝御理解頂いて、その御理解を愈々行じる楽しみが出来てきたと。話を聞かせてもらう喜び。所謂法悦話を聞かせて頂く所の喜び、それを行じる所の楽しみ。
そこに現れる所の体験、その有難さを有難さ楽しさ、喜ばしさというものがです、3拍手揃っていかねばならないという、そういう3拍手が揃うた時にです、もう誰が見ても誰が聞いてもはっきり信者、信者じゃないという区別見分け出来るような人柄にも、又おかげにもなってくると私思うです。今朝から朝の御祈念に御参りしてきた方達が、もう一人残らずお書下げを頂きました。
何十名ぐらいございましたでしょうか、皆んなが頂きました。最後にそのお書下げはみんな同じ。今朝私が頂きましたのですけれども、福寿海無量福寿の海無量とこれは御理解第22節から頂いた御理解なんです。読んでみましょう「天地金之神といえば、天地を一目に見ておるぞ。神は平等にお蔭を授けるが受け物が悪ければおかげが漏るぞ、神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。
ままよとは死んでもままよの事ぞ。と天地金之神といえば天地を一目に見ておるぞと、神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげはもれるぞ。ここの所を一つ、今日は特に頂いたんですね。私はここの所をですね、神は平等におかげを授けるとこう仰る。世界中の氏子におかげはやってあるとこう。本当にそうだなぁと私思うておる。皆さんもそう思うとるでしょう。
信心があろうがなかろうがいうなら、眉を落としておろうがおるまいが、ね、歯を黒うしておろうがおるまいが、こればっかりはおかげを受けておると言う事がそう言う様な事だろうかと思った。第一こうしてお生かしのおかげを頂く為には、矢張りこの大気に触れなければならない。生きてゆく為に水もいれば食べ物もいる。様々な天地のお恵み、天地の恩恵に浴せずに生きていくと言う事は出来ない。
成程神様のお徳の中にお恵みの中にあるのであってみれば神様のおかげを受けておるんだなぁと、こういうふうに思うておったんです。皆さんどういうふうにここを頂いておられたでしょう。所がですこう言う所で次の話で私は最近と言う事はないけれどもね、教祖の神様の御教え、御理解神訓、神戒もうこれを頂いておりますとですね、どこまで深いやら、どこまで広いやら分からない。
教祖の信心のもう素晴らしさに、もう只々頭が下がるばっかりでございます。で今日の御理解を頂きましてもです、そこん所を分からせて頂いたら成程そうだなぁと言う事が分かったんです。世界中の氏子におかげはやってあると、神は平等におかげは授けると、神は平等におかげを授けるが受け物が悪ければおかげはもるるぞと、ここん所をですね、私は今日気付かせて頂いたんです。
してみると成程只今申しましたような大恩恵を受けておると言う事も、おかげを受けておるのだけれども、実を言うたらです、福寿海無量の中にあると言う事。私共はおかげはどうぞ金銭のお繰り合わせをお願いいたします、健康のおかげを頂かせて下さい、どうぞあの事この事がその一切がです、その一切があるんだと言う事、その一切の物の中にあるのだと言う事。
天から降っておるようにというよりも、もうここにもうダブダブあるというのです。おかげは、ね、そういうおかげの中にありなからです、受け物が悪いからおかげが漏っておるだけの事なんです。より広大無辺尚蔭の中に福寿海の中にです、福寿海無量と限りのないおかげの中に私共が住まわせて頂いておるのだけれども、受け物が悪いからそれをキャッチしきらないと受け止め切らない。受けもらしておるんだと言う事。
もう6、7年も前の事だったでしょう。10年も前だったかも知れません。ここが毎年のようにこの増築々でなりまして、ちょっと久冨組がお蔭を頂いてから丁度最後の残金が47,000円だったと思います。という付けを丁度正義さんの姉さんにあたります、こつぼともえさんという方が毎晩参って来ておりました。最後のこの残りがこれだけ先生なっておりますというから持って来た。
開いて見ると47,000円、もうここは本当にいわばその日暮らしなのですから、「ああそうですか2、3日待ってもらわんといけんてね」と「ああそりゃいつでもかまいませんけれども」と云うてから、丁度夜の御祈念が終わってからで御座いましたでしょう、御理解頂き終わってからです。その前にある方が参って来ておった。御初穂と何か手紙の様なものを、私が耳が遠いもんでよくここが分かってなかったんですよ。ですから御初穂だけお届けさせて頂いてから、ここへやらせて頂いた。
それからあのこつぼさんに私そう申しましてから、ああそれで御座います。ここに手紙が中に一辺私が読んでおかにゃいけんのだろうと思うて、私がそれを開けた所がなんとその中にお金が47,000円はいっとった。【 】こればいって、本当に置いたものを取るように、必要な物が必要に応じておかげが頂けれると言う事を、いつも椛目では見たり聞いたりしておるが、これなんかはもう本当に、目の当りに見せて頂くようなものだね。というて話した事で御座いました。
ある大きな商売をしておる人がです、この掛け金がどうしても入らないんです。何年か入らない訳なんです。一週間ばかり前にそれがお取次頂いておった。所がそこからまた改めて大量の注文があった。そん時にです前のその47,000円という売掛金も一緒に現金で買われた。これは無い物にしてというて、その47,000円お供えに持って来て、だから穢れのないように祈って頂きたいと、私にその中に47,000円そのまま入れてあった。例えばこれは所謂成程、福寿海無量という一つの例なのです。
ここにお参りしておられるとですたい、それ【 】じゃなくてもですね、お月次祭ならお月次祭なんかにお参りなるとそれを実感されるでしょう。を必要な物が必要に応じて限りなく。それはささやかながらです、私の心の上に頂くもの。それはさっき御理解20節に申しましたようにね、神様の教えて下さる事をいうなら、命掛けで一生懸命守らせて頂こうという、努力をしておると言う事だけでおかげを頂くのです。
今日私はお参りして来る、後から御祈念の後にお参りして来る人ひとりひとりの人に、私申しました事で御座います。「もうあんた本当におしいばい。本気で守らなければばからしかよって。もう一年遅れてはぁほんにもう早う行じておけばよかった。守りゃよかったと思うごとあるよ」と。私その事ばっかり申しました。疑うて聞かぬ者というのがです、是非に及ばずと神様をがっかりさせる様な事ではなくてです、ね、
それを行じさせて頂いて、神様にも喜んで頂き、私共も成程福寿海無料の中にあるんだなと言う事をです、体験させてもらいその信心が大きくなり太くなり広くなりおかげがその通りの事に成って行く様なおかげを頂いて、初めて私おかげを頂けるのじゃないかと思う。私はそう言う様なおかげを頂かなければです、又そういうふうに御教えを行じてゆく、生活の上に現す、行じ抜いてゆくと言う所にです、はっきりおかげを頂ける。信心をすれば変人なれ、変人にならなければ信心はでけんと。
変人とは直い事ぞとこう仰る。ね、直い生き方をさせて頂く所にです、すぐい生き方をしていない人達から見たらはっきりしてくるのではなかろうかと。所が信心を頂いておりましてもです、すぐくいつかずに矢張り信心の無い者と同じ歩調を合わせていって居る様な事であるから区別がつかんのです。ちょっとあの人は変わった事を言わっしゃる。ちょっと変人だと。よし言われてもです成程あの人は違う。
北野の江口と言う所に、もう本当にお百姓さんです。もうこつこつとした信心をされる。日吉と云う姉妹があります。日吉しげのさん、日吉とみ子さんという、昼間お二人とも御主人はおられるけれども姉妹なんです。姉妹共御主人と別れてある。同じ様なその境遇なんですね。勿論家は別です。もう黙った信心をされる。ですからもうとにかくお月次祭には必ず参って見えられますけれども、雨の降る日が御参拝日というごとあるふうな人達なんです。
もうその変わりに雨の降る日は、もうゆっくり歩いてお参りして一里半の道を往復三里の道を歩いて参って見えます。それが十何年続いておる。そこからある同じ部落から3、4人の婦人の方達が時々参って来る人、初めての人とまぁその参って来た事があるんです。色々御理解頂いてから頂き終わってからです「本当に日吉さん達姉妹には感心しますがの」と話されます。「ほうどげん所が感心するのち、まぁ大分長く参って来よるけ、ちいとは変わったごとどんなふうに変わったの」と。
私が言いましたら、そのいろんな婦人会のいろんな会合なんかがあると必ず人の噂が出る。悪口が出る。そしたらいつの間にかこの姉妹2人がどこさ行っておられると言う事です。そしてここへ時々参って来てお話しを頂いておるとです。人の悪い事悪口を言うごとある時にはその場に居るな。その場を逃げよとこう仰る。その教えを行じ抜いておられる訳なのです。それがもう村内の者の評判になっておる。【 】必ずおりなさらんその場に、そこ信心のある者と無い者との区別。
信心のある人はやっぱ違うと言うて村内の人が言うておりますとこう言われる。どうでしょう一緒になってこんなこっちゃなぁと言うてから、悪口を言いよったらね、一つマァオ蔭頂きましてですね、眉を落として歯を染めてと言う様に、はっきりとまではいかんと致しましてもです、なんとはなしに違うと思いよったら、金光様の御信心を頂いてござったげなと言う位な違いがなければです、本当なお蔭は受けられんと私思うですね。
おかげ頂きました。